昭和49年09月22日 朝の御理解



 御理解 第77節
 「人の悪いことを言うものがある、そこにもしおったらなるだけ逃げよ。影で人を助けよ。」

 昨日、昨日の朝の御祈念のときに、頂いておった事でしたけども、「神の言う事を聞くのが、おかげの鍵」と言う事を頂いておりました。神様が言うて聞かして下さる、それを素直に聞くと言う事がおかげの鍵だと言う事だ、どうにもあけようと思うても開からなかった、開こうと思うても開けなかった。どんなにお願いしても頂けなかった。それが神様の言う事を聞く気になったら、それこそ鍵がガチャッと開くように。私はあの真と言う事は、あの神様の言う事を素直に聞く事だと思うですね。
 私はあのう本当にそれをね思うんです。どんなによい信心が例えばできておりましてもね、神様の言う事を聞かない人がもう沢山あります。それも決して神様は難しい事を仰るのじゃないです。もうそれがそうになんでもかんでもたろうて、出来なきゃならんと言う事じゃないです。例えばあの今日のこの御教えなんかはですね、もう私共が本気で言う事を聞く気になったら、もうすぐにでも実行ができるんですね。
 例えば人の悪い事をよく言うものがあるとね、もしそこにおったら逃げよ人の悪いいわば評判とか話しとかが、あるいはそう言うとこにおったらそれにはもうかたらずに、もう出来るだけ逃げよと。そして悪い事を言われておるその人の事を祈ってやれ、かげで人を助けてやれと仰る。所が人間て言うものは妙なもんで悪口を人の悪口やら言いよると、もうむしろこうやって耳を立てて、それこそ聞きたいものだなんですね。
 ですから信心させて頂く者はです、人の悪口の例えば話し合いどんがありよる時には、そっとそこをその場を逃げると言う事。そして影でその言われておる人の事を、願ってあげると言う事。そう言う様な心がけになると言う事はねもう、神様の言う事を聞く事になるのですから、もう必ずおかげ頂くです。これはね本気で実行しようとしたら、あのすぐ出来る事ですから、皆さん本気でね所謂神の言う事を聞くと言う事。
 例えば子供でもそうでしょう。親の言う事を聞く、いくらいうても言う事を聞かん、段々子供に対する親の信用というものは、言う事を聞く子には、何をやってもよい気がするでしょうが。何をやっても惜しくないという気がするでしょう。もうどげんいうたっちゃ、言う事は効かん、それにはやらにゃもんでん、やろうごとなくなって来る様なもんです。教祖様がこれだけ沢山のみ教えを下さるのですけれども、もうほんというたらです、その難しいことを教えておられないです。
 たまには難しい事もやっぱ、ありますよね。例えばお酒が好きでお酒が好きで、酔狂が出る様な人達のためには、その酒を例えば辞めよとんんな仰る様な事が無いじゃないです。悪い癖のある人にです、その癖だけはいっちょ辞めろと、もう癖ですからとても中々辞められんです。私共のあの家の孫が、もうやっぱりつくり乳だからでしょうかね、もうあの必ず親指を吸うんです。もうはぁこの親指は悪い親指だよちゅて教えるんです。だからこれ悪い親指だよち言うて、次にはまだ吸いよるです。
 もう夜になるともうちゃっとこう吸うとるです。もうこの親指んなんかいぼん出来る様になっとるんです。これえはいうならば悪い癖ですから、それを辞めると言う事は、もうほんとに辛い事もあるです。けれどもそれが信心を進めていく上に、それが邪魔になるものである時に、神様が辞めよと仰るです。そういう時にはねもうほんとに泣くごと辛い時があるです、けれどもそう言う様な事を、神様が本気で聞く気になったらです、もうお徳を受けますね。そこん所が矢張り辛抱だと言う事。
 三代金光様がわずか御年十三才、親金光様がお亡くなりになられた、ご遺言にねいうならば、摂胤それが金光様のお名前です。もう摂胤も十三になるから、お広前が務まりましようと周囲の方達に、お願いをして亡くなられた。そして金光様には座っておればか楽じゃと教えられた。まだ十三でなあんにも分かりませんでしたけれども、座っとれば楽じゃと、親金光ささまが仰せられたから、座っておりましたけれども、決して楽な事ではなかった、という意味の事を仰っておられます。
 もうそれこそ辛うて、辛うてよう泣きましたと。後年になっての御述懐の言葉なんです。「始めの間は、親金光様が座っておれば楽じゃと仰せられたから、座りましたけれども、もう辛うて辛うてよう泣きました、と、それでも親金光様が教えて下さった事だから、辛抱しいしい座っておりましたら、思う事もなくなり、欲しい物もなくなり、ただ有難うて有難うて、何ぼお礼を申し上げても足りませんのじゃ、」と仰る。お礼の足りないお詫びばかりを致しております。
 というほどの、もう信心の最高の境地が開けてお見えられたわけです。思う事もなくなり、欲しい事もなくなりと言う事は、我情我欲を放す事がでけたと仰るのです。思う事と言う事は我情である、欲しいと言う事は我欲である。思う事も欲しい事もなくなりましてなあと、ただ有難うて有難うて、そのお礼の足りないお詫びばかりを致しております、と仰せられる。だからそう言う所も信心にはあるですやっぱり。
 しかし是は今申しますように、もう最高の徳を受ける事になるのです。辛うて辛うてこの癖をやめる事には、もうほんとに泣きましたけれども、と言う様な修行さして頂くならこりゃもうお徳になりますね。そこをやはり信心は日々の改まりじゃとこういう。賭け事なんかの好きな人、もう自分でね分かっているらしいんですよ。例えば競馬競輪マージャン是をやったら、自分がほんとは成功はもう出来んとさえ思う位にです思うらしい。私は賭け事が昔から大嫌いですから、もうあの碁将棋も知りません。
 また私は思うていました、商売人が例えばそういう賭け事どんやる様な事じゃ、絶対ほんな商売人になれないんだと、自分でも思うとりました。例えばならそういう人がです、本気でこう言う事では、自分は成功はでけんと悟ってです、もうそれはもうなんていうでしょうかね、ここに何人かそげな方がありましたよ、もうそれこそ人の金でも持っとると、それで競輪に行く競馬に行く花札をやる。
 もう自分にゃこの癖があったらもう、絶対自分な成功でけんどころじゃない、家族中の者が難儀をする事が分かっておっても、いうならば癖というか、もう染み込んでおるのです。私があるあの盗癖のある人の、お届けをさせて頂いたがね、もうとにかくあの、デパートあたりに行ったらですね、欲しいなあと思うたら、手がガタガタふるい出すそうですよ。ていつの間にか盗ってしもうとる、もうほんとにこの手が悪いと叩いてもです、もう遅いのです。
 分かってるですから、そう言う様なものをです、本気で改まると言う事は、やはり見易い事じゃないです。けれどもそれが信心の邪魔になる、おかげの邪魔になる、それではおかげは受けられんと分かったらです、やっぱり泣く泣くでも一つ辛抱して、いわゆる神の言うことを聞いたら徳になる。または今ここで、人の悪い事をよく言うものがあるが、人の悪いことを決していうなよと、もし、そういう場に居ったら、その場を逃げよと、これなら簡単に、私は出来るこっちゃないだろうかと。
 所が自分も一緒になってから、その人の悪口を言寄る所の加たろうごとある気持ちが人間の心の中にはある。人が陰口どん言いござると、こうやって聞き耳を立てたいごたある者が人間の心の中にある。けどもそこの所をです陰で人を助けると言う様な気持ちになったらね、もう今日からはひとつ決して人の悪口だん言うまい、とこう思わにゃいかんです。人の不行状を見てわが身の不行状になることと仰る様に、人の悪を見たらば自分にもああいう所があるだんせんじゃろうかと、自分の心に持ってきてです。
 とても悪口だん言われん、なら子供なら子供の悪口を言う、成程悪いかもしれません。けれども、子供を悪ういう前に自分自身が、改まらなければならない事に、気付いたらもう、うちんやつばっかりはどんこんでけん、と言った様な悪口を言わんで済む訳です。神の言う事を聞くと言う事が、おかげの鍵と仰るのじゃから、本気でおかげ頂かにゃいけませんね。人の悪口を言うとそばってん、あの人はあげなよかとこもありますもんね、ちゅうてそれを消すような、言い方をする方がありますね、素晴らしいです。
 もうその人悪口を言われんごつなってくる。あの人は人がそうに悪ういうばってん、あげなとこもよか所がありますよと言うとね、もう悪口を言い消すそういう私共は人になりたいですね。昨日私がここで今度、あのお米を分けて頂いた方達のお話を致しましたね。から、昨日あのご理解の後で、久留米の佐田さんが、親子でここへ出て見えて、実は親先生こちらで分けて頂いたお米を入れて、どうしてこの頃こげんご飯の美味しかとじゃろうかと言うたら、はあ合楽のおよねば混ぜて炊きよるけんばい。
 ともうそら嘘でも何でもないですよ、ほんとに美味しいとですから、といって親子であります。頂きようです。頂き方です。昨日私がお話いたしておりました、戎浦さんなんか、昨日お参りして来てから、もうそれはそれはもう不思議で不思議でたまらん事があります。こちらもお米を文男先生から、あれは分けて頂いたんだんだそうです。そして毎日五合づつご飯を炊かれるそうです。小さいはがまでそれで普通のお米ば、四合とこちらから頂いていっとる、お米を一合混ぜます。
 もう出来るだけ長く頂きたいというので、一合づつ入れさせて頂きますが、私は毎朝娘にちょいと、こげな不思議なこつがあるじゃろうかと言うて娘に申しますち。見てご覧いつもこのはがまで炊かせて頂くと、ちょうど七合くらいぐちまでぐらいに、一杯になるそうです、普通の米であったら、所が合楽の米を四合に一合まぜて、五合炊かせて頂いたら、もうその七合口のが一杯になるちゅうんです。もう私は不思議で不思議で堪らんが、ちゅうて、娘と毎日話しますと言うておる。
 してもう熊本から来た信心友達の方にです、これは合楽のお下がりだから、少し分けてあげよというて、その言う様な所謂頂き方にです、そういう不思議な働き、言うならばですお下がりのお米を悪ういう人はどこまでも、臭かったり食べにくかったり、もうこげなもんは食べられんというて、ちゃんとほうからかしてしもうとる。 けれども是は合楽の、お下がりというて、悪いものじゃなくてよう言う事になってきた、有難く頂く事になってきたら、それが不思議で不思議だたまらん位に、増えたりまたは。
 佐田さんじゃないけれどもおいしゅうして、どうしてこげん美味しいじゃろうかと、合楽のこうやって混ぜて、炊かせて頂きよるけんよと言うくらいに、美味しいちゅうんです。いうならばこれは人じゃありませんよ、例えば物なら物でも悪口、悪う言うちゃ神様がお嫌いになる事が、分かりますね。むしろそれを尊んで頂く、むしろ有難く頂く、褒め称えて頂く、そこに美味しい、または不思議でたまらんぐらいに増える、と言った様な、おかげにもなってくる。同じ道理です。
 ましてや人の例えばね。悪口を言う金光様の信心をさせて頂くものが、外の宗旨宗派の事をね、皆んな悪口を言わんのがお道の流儀です 教祖様のご時代に、金光様の信心があまりにも有難いあまりにです、隣近所にあるいろいろまあ、仏教のことやら、ほかの神様の事やらを、お広前で悪口を言いよった時に、教祖様が大変機嫌が悪うなられた。そしてその仰られたことはね、まあ「たとえば、釈迦にしてもキリストにしてもです、みんな神の氏子ぞ、」と。
 親の前で他の子供達の事を悪口言うて、親が機嫌がよいはずが無いじゃないか、と言う意味のことを仰ったと言う事です。皆んな神様の氏子ですから、その人の事をそれこそ、悪口を言うたり、悪い評判を立てたりするなら、神様が喜んで下さるはずがありませんよね。人の悪いことをよう言うものがある、もしそこに居ったらその場を逃げよ、それを消すような働きになるような、おかげをいただかなきゃいけん。
 あの人もちょいとろくな人じゃなかばの、ああばのいいえほんなこて、私も知とると言う様な、それに輪に輪を書くような、悪い事の事が、言う様な事では、おかげは頂かれん。今日はこのみ教えひとつの事じゃありませんけども、教えをほんとに聞くというか、教えをね、神の言うことを聞くと言う事が、おかげの鍵だとおっしゃられる、今までどうにも頂けなかったおかげが、カチッと開くんです。ほんとにひとつそれを体験させて頂かれたらいいですね。
 そしてむしろね、陰で人を助けよとね。例えば悪口でも言われよる人の事があったら、自分がそれに加担せず、その場をこそっと逃げる様な気持ちになってです、その悪く言われている人の事を、かげで祈って上げる様な心にならせて頂いたら、私はお徳が受けれれると思うですね。陰を大事にするのですから。今日はひとつあの神の言う事を聞くという事は、おかげの鍵だと言う事をひとつ本気で分かって頂きたい。どうにも出来ないものが鍵さえ持てば。
 カチャット開くでしょうがそれと同じ道理です。それを神の言う事は一つも聞かんな、反対の事ばかりして、親先生はあげん言いなさるけども、というて私の言う事にけれどもを付けずに、親先生がああ仰るから、と私の言う事を聞いたら絶対おかげを受けられるです。そしてどうぞどうぞと、おかげばかり願うても、それはちょっと始まらんわけです。親先生が決して難しい事を言われるはずはない。
 教祖さまが行じようとして行じられない様な事を仰るはずはない。けれどもね私共が場合には、是があってはお徳が受けられん、これがあってはおかげが受けられんと言った様な、いうならば癖の様なもの、それは大変難しい事、それこそ泣く泣くでもその事は矢張り辛抱して、そこを改めていくと言う事がです、おかげを頂く事にもなります。そういう難しい事を、言う事を聞くんですから、これはもうおかげではなくて、お徳の倉庫を開く様なおかげが受けられると思うですね。